2020年2月11日ヤクルト、阪神などで監督を務めた野村克也さんが亡くなられたとの訃報が届きました。
プロ野球選手として、また、プロ野球監督しても、輝かしい成績を残された野村克也さん。
野村克也さんのご冥福をお祈り申し上げます。
この記事は、野村克也さんの若い頃について調べた内容をまとめてみました。
野村克也のプロフィール・生涯成績
【プロフィール】
名 前:野村 克也(のむら かつや)
生年月日:1935年6月29日 (-2020年2月10日)
享 年:84歳
出 身:京都府京丹後市出身
学 歴:京都府立峰山高等学校
在 籍:
南海ホークス (1954 – 1977)
ロッテオリオンズ (1978)
西武ライオンズ (1979 – 1980)
【生涯成績】
出場試合:3017
打 率:.277
安 打:2901
打 点:1988
本塁打:657
【顔画像】野村克也の若い頃は?
京都府京丹後市出身の野村克也さん。
幼い頃、父が戦死した影響で、家庭は貧しく、小学校1年生の頃から、兄とともに新聞配達やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをされていました。
貧乏な生活から脱却したいとの思いから、将来は歌手になろうと中学校のコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館通いをしたりしていたそうです。
しかし、当時プロ野球の大スターであった「赤バットの川上哲治」・「青バットの大下弘」への憧れを持ち、次第にプロ野球選手を志すことになります。
野村克也さんは、中学2年生で野球部に入ると、すぐに4番・捕手に抜擢!
中学3年生の時には奥丹後地方予選で優勝。京都府大会でも四強入りを果たしました。
中学卒業後は、野村克也さんは、京都府立峰山高等学校に進学します。
この頃、貧しくバットも買えないため、海水を一升瓶に入れて持ち帰り、素振りをしていたという逸話があります。
ちなみに、野村克也さんは、高校時代、全くの無名選手でした。
というのも、京都府立峰山高等学校の野球部は、地方大会で1回戦負けが常という弱小チーム。
野村克也さんの在学中も、2年生の時に京都府予選の2回戦まで進んだのが最高だったそうです。
この頃の野村克也さんの顔画像がコチラです↓
野村克也 峰山高校時代(当時18歳)
卒業後の進路は。野球部の顧問がプロ球団の監督に手当たり次第に推薦状を送り、南海監督・鶴岡一人さんだけが返事があり、1954年、南海に契約金0のテスト生として、入団しました。
プロ1年目~2年目は2軍生活を送りますが。3年目の1956年に、ハワイ春季キャンプで一軍に抜擢され、以降正捕手に定着しました。
1958年 野村克也 南海ホークス(当時23歳)
1965年 野村克也 戦後初の3冠王(当時30歳)
1966年 週刊ベースボール表紙
1977年 野村克也 ロッテオリオンズ(当時42歳)